最後にハワイの歴史を考える上で大切な戦争と観光の繋がりについて話題を移そう。映画「ブルー・ハワイ」の撮影計画が進められている頃、真珠湾でアリゾナ・メモリアルの建築が進められていたが、建設費用が不足していた。アリゾナ・メモリアルは、日本軍による真珠湾攻撃で命を落とした若い兵士たちを追悼するとともに、国防の重要性を忘れないために建設された。沈没した戦艦アリゾナの真上に設置された水上のモニュメントだ。資金調達のために、1961年1月にプレスリーがファンドレイジング・コンサートをすることが記者会見で発表され、ハワイのメディアでも報じられた。同年にビルボードヒットチャートで1位となった曲で知られる人気歌手がやってくるということでハワイは大騒ぎになった。プレスリーは1961年3月25日に米西海岸から飛行機で到着し、同日に海軍内施設のブロック・アリーナでコンサートを実施した。(その後、ハワイで映画の撮影が行われるという流れだった。)決して大きくない会場が選ばれたのは、1941年に同会場で演奏をしていた海軍の楽隊が、数日後に日本軍による攻撃で戦死したという記憶されていたからだ。この場所で行われるコンサートは単なるコンサートというより、戦争と観光を媒介する出来事だったと言える。チケットの売り上げ、その後の州や連邦政府からの追加の資金援助があったおかげで、メモリアルの建設を進めることができ、約1年後の1962年5月30日のメモリアルデーに公開された。意外に思われるかもしれないが、ハワイの数ある観光スポットの中で、真珠湾のアリゾナ・メモリアルが最も観光客数が多いのであり、アメリカ人だけでなく、他の国や地域からハワイを訪れる観光客もアリゾナ・メモリアルを訪れている。プレスリーは当時26歳であり、真珠湾攻撃で命を落とした若者たちとそう変わらない年齢だ。(チャドのように)従軍経験もあったので、ファンドレイジングに協力することに積極的であったのだとすると、「ブルー・ハワイ」は戦争と観光が交差する場として捉え直すことができる。